1948年1月17日。ナイル・キニック・スタジアム(明治神宮外苑競技場)に集った6千名の観衆は、キックオフの刻を待っていた。
“Here We Are Again!(我ら再びここに集う)”日本フットボールの父であるポール・ラッシュ博士の雄叫びともに蹴られたボールが高く空に舞い上がると、競技場は大歓声に包まれたという。
ライスボウルの歴史は、こうして幕を開けたのだった。
戦後の焼け跡から蘇った日本のアメリカンフットボールは、めざましい勢いで復活した。47年4月に東西大学王座決定戦として甲子園ボウルが誕生。東京では戦前に行っていたオールスター戦の復活を願って関係者が奔走し、同年12月に急遽開催が決定。出場選手はリーグ戦終了後、オールスター選手、監督、コーチ陣を選出してチームを編成し、大急ぎで大会を告知するポスターを作り上げて宣伝活動を行うなど、関係者は試合の準備に追われる毎日だった。
大会名称は、米国の新聞記事がヒントになった。戦前に東西選抜対抗戦を米国の新聞が、『日本人は米(ライス)を主食としているから、日本のボウルゲームはさしずめ“ライスボウル”とでも言うのではなかろうか』と報じていたことにちなんで、ライスボウルと命名されることになった。
第1回ライスボウルは、三週間前の第2回甲子園ボウルで明治大を僅差で下した関西大勢を中心にした関西選抜が上京。個人技のあるバックス中心の関東選抜が迎え撃ち、33対12と快勝した。
以来、第36回大会(83年1月)までオールスター東西戦として成長を重ねてきたライスボウル(関東24勝、関西12勝)が、現行の日本選手権に衣替えしたのは、日本のアメリカンフットボール誕生の50周年を記念したものだった。甲子園ボウル優勝の大学代表と、社会人代表が対戦して日本一を決める大会への変貌は、34年にラッシュ博士によって蒔かれたアメリカンフットボールの種が大きく実ったことを告げるように幕が切って落とされたのだった。
その記念すべき84年1月に開催された第1回日本選手権に登場したのは、京都大学(関西学生連盟)とレナウン・ローバーズ(東日本実業団:当時)だった。日本フットボール界にとって公式戦史上最高の3万5千名の観衆が集ったライスボウルは、ゲームも一進一退のスリリングな展開となり、終了6分前に再逆転した京都大が1点差を守り切って29対28で初の日本一の栄冠に輝いた。
以来ライスボウルは24大会が開催され、学生チーム11勝、3連勝中の社会人チームが13勝。25周年大会となる今季、その栄冠は果たしてどちらの頭上に輝くことになるのだろうか。